影と実体について


そして神は、「われわれに似るようにわれわれのかたちに、人を造ろう」。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。(創世記1:26,27)

私たちは神の似姿をもって創造されました。生まれつきの私たちには、もちろんアダムにあって継承したがありますが、聖なるものを求め、善を行なわんとし、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった素晴らしい属性をある程度有しています。しかしそれらは残念ながら完全ではなく、限度があり、擦り切れてしまう性質のものです。つまりそれらの属性は対応する神の属性に似せて造られたのであって、それ自体は実体ではないのです。

私たちは土で造られた者のかたちをもっていたように、天上のかたちをももつのです。(1コリント15:49)

これらは、次に来るべきものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:17)

その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」(ヘブル8:5)

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのです。(ヘブル10:1)

ヘブル書にある「これら」とは旧約における様々の規約、儀式、さらに職制を指しております。旧約にはまず第一に律法がありました。その律法にともなって祭司職が決められ、幕屋あるいは神殿においては犠牲の動物の血が流され、祭壇で焼かれ、種々の捧げ物がなされました。また聖所には備えのパン、燭台、金の香壇が置かれ、その奥の至聖所には、贖いの蓋の上に2つのケルビムが覆いとなった契約の箱が置かれ、その中には芽の生えたアロンの杖、十戎の書いてある石板、そして隠されたマナの入った金の壷がありました。この至聖所には年に一度大祭司のみが入ることができました。後になると預言者が立てられて神の言葉を民に取り次ぎ、また王政が設定されました。

これらの規約や職制は、すべてキリストの本性や属性、さらに職制を象徴するものです。またキリストの贖いの御業の実際をいわば絵本として提示しております。旧約のこれらの目に見えるものによって、霊的なキリストの御業がどのようなものであるかを分かり易く説明しているわけです。それ自体は実体を欠くものであり、影に過ぎません。ところがユダヤ人はその影自体を後生大事にし、その本体であるキリストをないがしろにしてしまっているわけです。

律法は神の聖に基づき、神の義を明らかにします(ローマ3:21、7:12)。これ自体を守ることが本質なのではなく、これを通して、私たちの罪が暴かれ(ローマ7:7)、キリストへと導くためでした(ガラテヤ4:24)。また様々の儀式、捧げ物、および幕屋の構造や機能もキリストの贖いの業を意味しております。それは天にある実際の幕屋とその中でのキリストの行為の地上における影なのです。その中の調度品なども、すべてキリストの属性のある要素を意味しています。

このように私たちの性質や属性は、神のそれらの反映であり、いわば影です。旧約の様々な要素はキリストご自身やその御業の影です。キリスト・イエスは「わたしが真理であり、道であり、命である」と言われました。この「真理」とは、単に事の道理として正しいとか間違っているという意味の真理ではなく、究極の存在そのものとしての真理、すなわちキリストのパースンを意味します。旧約で示された様々な要素はキリストを意味しており、その実体がキリストなのです。

私たちがキリストを得ることは、キリストが律法を完全に守られたゆえに、私たちも神の義を得ることを意味し、キリストが聖であるゆえに、私たちも聖を得ることを意味し、さらにキリストが贖いの業をなされたゆえに、私たちが贖いを得ることを意味します。キリストは私たちにとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとになられました(1コリント1:30)。

また、神に似せられて造られた私たちの様々な属性も、それ自体は影であって、その実体がキリストなのです。すなわち、それらは御霊が結ばせて下さる実であって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22,23)。御霊はキリストの言葉とパースンを証しして下さる方ですから、それらの属性はすべてキリストの属性です。キリストの属性が私たちの内で追体験され、私たちの構成要素となるのです。こうして私たちの内にキリストの形ができていきます(ガラテヤ4:19)。これがいわゆる聖化の過程です。

私たちはしばしば「自分には愛が足りないから、愛を下さい」とか「忍耐が足りないから、忍耐を与えて下さい」とか、何かある要素や属性だけを求める傾向があります。しかし実はそれは見当はずれの求めなのです。何故なら、神はそれらの要素を切り売りなさるようなケチな方ではありません。すでにキリストご自身を私たちに与えて下さったのです。旧約のすべての要素はキリストにおいて実体になります。神の本性と性質もキリストにあって実体となります。愛の不足を覚えるときには、キリストをまず求めるべきです。キリストの愛が私の愛になります。忍耐が足りないときも、まずキリストを求めるべきです。キリストの忍耐が私の忍耐になります。キリストご自身が私にとって神の知恵であり、であり、であり、贖いなのです。この意味で罪の赦しも、病の癒しも、必要の満たしも、すべてはキリストにあって(in Christ)こそ私の経験となり実体化されます。

信仰とはまだ見ていないことの実体化(substanciation)です(ヘブル11:1、Darby訳)。神のロゴスである客観的キリストが、私たちの信仰によって結び付けられるとき、それはレーマとして、霊であり命となり、私のうちで実体化されます。キリストの愛が私の愛として実体化されます。キリストの忍耐が私の忍耐として実体化されます。すでに真理である方・キリストが御霊によって私たちの内に住んで下さっています(2コリント13:5、コロサイ1:27)。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています(コロサイ2:9)。キリストこそ神の豊かさが形を取られた方であって、信仰によってこの方を得ることはあらゆる神の属性、旧約の諸々の要素の実体を得ることなのです。このキリストが私たちのいのちであり、私たちのあらゆる属性となって下さるのです。そしてこれがいにしえの信仰の偉人たちが求めても得ることのできなったものであり、私たちはすでに得ているものなのです(ヘブル11:39,40)。


mbgy_a05.gif