霊的アイデンティティの確立D -コスプレ vs いのち- 


やさしさの精神病理

私の著書『真理はあなたを自由にする―"ファクターX"の再発見』が出た。本書は父性の不在と母性の病理による"砂糖まぶし&真綿くるみ"の霊的現状にインパクトを与え、一部では波風を立てよう。今日人々が求めるのは"やさしい人間関係"―物事をやんわり処理し、ややこしいことは言わず、互いの意見、感情、"信仰"に干渉しない楽しく睦まじい関係―だ。この空気の中ではそれが真理よりも優先され、うるさいことを言わず、何でも受け入れ認めてくれる"包容力"のある人物像が求められる。北野武ではないが、だから私は嫌われる(笑)

"コスプレ・クリスチャン"

ある掲示板で私の投稿が契機となり、クリスチャン的偽善(悪)について活発に議論された。中でも秀逸なのは"コスプレ・クリスチャン"だった。クリスチャン的教養とプロトコル(作法)を身につけて、"交わりの場"でソツなく振舞う様を鋭く指摘した言葉だ。山口百恵の引退で青春を終えた私は"イミテーション・ゴールド"と言いたい。

"WWJD(What Would Jesus Do)"なるコピーがある。「イエスならばどうするか」と言う意味だ。もっともらしいが真理ではない。その"努力"によりしばしば内面と外面の乖離(取り繕い)に陥る。すでに仮定法(事実でないことの仮定)がその証拠だ。「私はイエスではないが、イエスであったならば・・・」のセンスで、ここでは"私"が"イエスらしく"生きようとしている。まさにコスプレだ。しかるに聖書は何と言うか:「生きているのはもはや私ではない、キリストが私の内に生きている」(ガラテヤ二・20)。私たちの責任は自己主張する魂を否んで、内に生きるキリストに生き出ていただくことだ。これはいのちの交換である。

いのちの無意識的自動性

いのちは種に従って造られた。犬は教えなくても四足で歩く。人は教えなくても立ち上がる。これはいのちの本性による。二足歩行するにはいかに複雑な力学の微分方程式を解くべきことか。もし一つひとつを意識して解きつつ歩こうとすれば、たちまち転ぶだろう。しかし人のいのちは無意識に自動で解いている。だから歩けるのだ。

神は私たちの霊にキリストのいのちを吹き込んで下さった。私たちの霊にいますいのちなるキリストに生き出ていただくとき、あらゆる神の律法は自動的に満たされる。"WWJD"などと努める間もなく、霊のいのちは瞬時に神の方程式を解くのだ。それは信仰によるきわめて自然なプロセスだ。その時私たちにとって"生きることはキリスト"(ピリピ一・21)であり、私はこれを"ジーザシング(Jesusing)"と言っている。実はとても楽で自由な生き方だ。

"ファクターX" 

神の方程式は私たちの生まれながらのいのちでは決して解けない。しかし自己の死が実体化されるとき、深い平安と安息にあって、復活の領域で自然と解ける。これは霊のいのちの無意識的機能だ。これが私の言う"ハードコアな福音"―ドラスティックにしてダイナミックな変化を生む"ファクターX"だ。現状にいまひとつ物足りなさを覚えているあくなき真理の探求者諸兄姉に本書を贈る。

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