ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第9回

立つこと@

−敵のアイデンティティと対処法を知る−



クリスチャン経験の最後の層は、霊的な敵との関係のダイナミクス(力学関係)に対処することです。私たちの抱える問題は決して精神病理的要因のみではなく、霊的領域からの影響があります。内住の罪と肉と霊的敵との相互関係に関する詳細な霊的知識が必要となります。無手勝流ではダメです。十分なる真理の武装の上で敵に立ち向かうのです(エペソ六・11、ヤコブ四・7)。



一、本質的重要論点


(1)"霊的戦い"の定義

私の"霊的戦い"の定義は「すでにキリストが十字架で得られた敵に対する勝利を、信仰により具体的場面で適用すること」です。これから戦いを挑んで自力で勝利を勝ち取ることではありませんし、そのような挑発はむしろ危険です。"力による対抗(Power Confrontation )"ではなく、"真理による対抗(Truth Confrontation )"です。(前者が必要な場面ももちろんあり得ますが。)

霊的領域との関わりにおいて重要な点は、エペソ六章後半にあるとおり、十分なる防御の上での攻撃にあります。救いの望みの兜、義の胸当て、真理の帯、平安の靴、信仰の大盾−これらはすべて防御用武具であり、唯一の攻撃用武器は御霊の剣である神の言葉です。悪魔が恐れるのは神の言葉そのものであり、私たちの解釈とか知識ではありません。


(2)敵との関係における霊的原理

 @敵のアイデンティティと策略に対する知識を持つ

今日アニミズム傾向の強い日本ではサタンとか悪霊は人格を持つ存在ではなく、人間の罪の性質を擬人化したものだとの解釈がありますが、これは聖書の啓示に真っ向から反します。サタンも悪霊も意志・思い・感情を有した人格的存在です。今日、敵の策略の中心は聖書の啓示を損なうこと、真理を偽りに変えること、クリスチャンのマインド(思い)を神の言葉から引き離して欺くこと、神の主権と神の言葉を貶めること−にあります。

敵の側からすれば、自らのアイデンティティと策略に関して私たちが無知であればその仕業をなすことはきわめて容易です。喩えて言えば情け容赦なく告発する検事に化けた犯罪者と言えます(黙示録十二・10)。あるいは時に光の天使として、人の目に良く、麗しく、きらびやかに見える存在となります(第二コリント十一・14)。自らの正体を隠し九○%の真理に一〇%の偽りを混ぜつつ、私たちの思いをじわじわと侵食します。

一般に思い・感情・意志のうちある要素を刺激して他の要素と違和感を生じさせますと、人はその違和感を最小にすべく他の要素を変化させる特性を持っています。特に閉鎖空間で外界の刺激を絶って一定の思想を強制しますと、人は最初は抵抗しますが、精神の疲労とともにその違和感を最小にすべく、感情と意志を変化させるのです。こうして魂全体をコントロールすることができます。これをフェスティンガーの「認知的不協和の理論」と言います。その結果一流大学出身の有能な心臓外科医がサリンを撒く凶行すら犯すのです。

真に霊が再生され御霊の内住を得た者であれば悪霊に憑かれることはありません。しかしクリスチャンも思いが翻弄されるとき、偽りの"声"に肉が煽られ、見かけ上悪霊に憑かれているかのような振る舞いに陥り、普通の精神科医が精神分裂病と診断するケースも出ます。ただしマインドコントロール自体が悪いのではありません。問題は誰のどんなコントロールを受けるかです。私たちは神の言葉によって大いにマインドコントロールされるべきです。私たちの内的造り替えはマインド(思い)から開始されるのです(ローマ十二・2原語)。積極的に思いを御言葉で満たすのです(コロサイ三・16)。


 A受動性に陥らないこと

精神を弛緩し受動的状態に置くことは霊的に危険であることは何度も指摘しています。御霊は私たちの自由意志を損ないませんが、敵は隙があれば思いに強引に侵入してきます。「神の導きに委ねる」と称して受動性に陥るとしばしば"声"を聞くようになります。「右に行け」と言われて従うと「左だ」と言うように、その"声"はただ混乱を生じさせます。深刻なケースですと"声"と現実との区別がつかなくなり、霊的闇の中で「お前は神に呪われている」などの脅迫に怯えるようになります。また御霊の内的確証を欠くとき人に導きを求め、「個人預言をいただいた」として、それに従って混乱するケースもしばしば観察されます。

大切な点は、今日神は御子によって語られるのであり、旧約的な「主はこう言われる」式の語り方はしません(ヘブル一・2)。その御子は私たちの霊の内にいます(第二コリント十三・5)。私たちにはキリストからいただいた油がとどまっており、それがすべてを教えるので、誰からも教えられる必要がなく、ただキリストの内にとどまればよいのです(第一ヨハネ二・20,27)。旧約と新約では御霊と人の関わり方は本質的に異なります。旧約では一部の人物に経綸的かつ機能的に臨んだのに対して、新約ではすべての信じる者の内にいのちとして本質的に臨在されるのです。それはいのちの有機的結合であり、私たちの霊はキリストの霊(=御霊)とひとつです(第一コリント一・9、六・17)。よって誰もが直接に主を知ることができます(ヘブル八・11)。今日の主の語りかけは客観的・他律的ではなく、きわめて主観的・自律的であり、"しっくりくる"ものなのです。

私たちは能動的に主の御旨を求め、しっくりする言葉を得れば信じて任せることができ、自分の業を止めて安息に入ります(ヘブル四・3,10)。この意味で信仰とは"能動的受動性"と言えます。「主の御旨が分からない」と訴える人が多いのですが、これは外的な人の声や働きなどに注意を奪われ、御霊によって内にいます主イエスの静かな声を聞き慣れていないためです(第一列王記十九・11,12参照)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。・・・そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ十・27)とあるとおり、内なる主との交わりが深まるにつれ、主の声を聞き分けられるようになります。イエスは"私の主"となり、彼との親密な交わりに入ります。この時"預言者"やこの世や敵の声によって影響されずに、平安と確信に満たされてキリストの甘い臨在を楽しむのです。


 Bパラノイドに陥らないこと

"霊的戦い"を推進する運動にある人々で、真理による武装が薄いために、必要以上に敵を恐れる病的精神状態(パラノイド)に陥るケースがしばしば観察されます。ちょうど強迫神経症の一種である不潔恐怖の人が細菌を恐れ、強迫洗浄(何度も何度も手を洗う病的状態)に陥るのと同じ精神病理です。健康な人は免疫系の防御機構に信頼しています(信仰)。霊的な対象も同様です。私たちはキリストを着ており、キリストは堅固な砦また高きやぐらであり霊的なバリアです。キリストの内にとどまるならば、敵の力は私たちに及びません。私たちが敵の火矢で傷を受けるのは自らキリストから逸脱して、自己の義に頼り自己主張や自己弁護に陥る時です。

私たちは思いをつくし、心を尽くして、主を愛するのであり(マタイ二十二・37)、絶えず主を思うことが福音です(第二テモテ二・8)。また思いを霊に置くべきであり、霊の思いはいのちと平安です(ローマ八・6)。さらに思いは天的な事柄に置くべきです(コロサイ三・2)。私たちの注意の対象はただキリストです。よく「あそこ・ここに悪霊がいる」などの発言を聞きますがナンセンスです。悪霊は細菌と同じで、どこにでもいるでしょう。しかし彼らの働きは主の主権によって制限されており、私たちが確固たる意志をもって阻止すれば、彼らは私たちに何もすることができないのです。私たちにはすでにその権威が授けられています(ルカ十・19)。

マタイ十八章18節はしばしば誤解されていますが、時制に注意して訳しますと、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それはすでに天においてもつながれていることであり(完了形)、あなたがたが地上で解くなら、それはすでに天においても解かれていることです(完了形)」となります。私たちはすでに天で有効あるいは無効にされている霊的リアリティを地上で適用する権威を有しているのであって、自分勝手をする権威ではありません。その霊的リアリティから逸脱して敵を挑発するならばその代償は高くつくでしょう。キリストにあって、キリストを着て、キリストの権威に与るとき、キリストの得た勝利が私たちの勝利になるのです。