フルコンタクト・ゴスペルI

霊が活きる道―福音の直接体験―


体-いのちの表現媒体






精神と身体

「病は気から」といわれるとおり、多くの病気はしばしば精神的な要因による場合があります。精神分析の創始者フロイトは精神状態と身体症状の無意識的関係に気付きました。

また現代医学においても、精神身体医学あるいは心療内科なども誕生し、ストレスが免疫系の機能を損ない、細菌感染や発ガン性が高まることも報告されています。精神腫瘍学などという分野すらできています。精神状態をコントロールすることによってガンの予後なども大きく変化する知見もあります。

私たちはしばしばこの身体のために悩まされています。加齢によって髪の毛は薄くなり、歯はぼろぼろになり、しわが増えて、腰も曲がり、何ら良いことがないようです。私もできるだけ体は鍛えていますが(第一テモテ四・8)、それでも30台とはかなり感覚が違ってきました。

「ああ、天使のように体に縛られないで自由であれたなら」と思ったことのある人もいるでしょう。パウロもそうでした(ピリピ一・23)。しかし実は天使は私たちを羨んでいるのです。彼らは言っていることでしょう:「ああ、人間のように体をもって自分の内面を表現することができたなら」と。

私たちは単に霊的な存在であるだけでなく、この体をもっていることを神に感謝すべきです。私たちはこの体があるので、魂と霊のあり方とダイナミクス、すなわち心を表現することができるのです。


体は心を表現する

(1)その霊的性質

体は土のチリから造られました(創世記二・7、詩篇百三・14)。だから霊が離れると土に帰ります(詩篇九十・3、ヤコブ二・26)。よって地上の幕屋と言われます(第二コリント五・1、第二ペテロ一・13)。

ダイレクト・カウンセリングで触れた単数形の罪(Sin)が働く領域はおもに私たちの体であり、かつては罪に対して無力でした。よって「罪の体」とか「死の体」と呼ばれます(ローマ六・6、七・5,23,24、八・10)。霊(原語)は熱していても、体は弱いのです(マタイ二十六・41)。

霊が再生されても、私たちの体は依然として旧い創造に属しますが、御霊はその死ぬべき体にもいのちを与えます(ローマ八・10,11)。いずれ私たちは復活の霊の体を得ます(ローマ八・23、第一コリント十五・44、ピリピ三・21)。

しかし現在においても、古い人の磔刑によって、私たちは自分の体を罪に委ねる必要がなくなったのです(ローマ六・6,12)。ですからこの体を義の武器として神に捧げて、御霊に用いていただくとき、神の栄光を現すのです(ローマ八・13、十二・1)。

(2)その霊的意義

体には自己保存と自己増殖の本質的機能があります。絶え間なく新陳代謝が行なわれ、その健康を保ちます。これは生理学の領域です。

心のダイナミクスは前回述べましたが、心は私たちの体を通して表現されます。体は物理的世界とコンタクトしていますが、同時に心の動きをきわめて鋭敏に表現します。主は言います、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ六・22)。迷っている人の特徴は目が澱んでいることです。光がないのです。続けて言われます、「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(同23節)。

現在私たちの体は聖霊の宮であり(第一コリント六・19)、体は主のためであり、主は体のためです(同六・13)。神のロゴスが肉体(幕屋)に宿られ(ヨハネ一・14)、その体を捧げられたことにより、私たちは聖とされ、完全にされています(完了形:ヘブル十・11、14)。

キリストは復活後、復活の体をもって昇天されましたが、命を与える霊(第一コリント十五・45)として、御霊によって私たちの霊に臨在され、私たちの霊から魂に至るまで、その油塗りによって整え、私たちの内にキリストのかたちが造られていきます(ローマ八・29、第二コリント三・18、ガラテヤ四・19、コロサイ三・10)。

すでに私たちの体はキリストのものであり、キリストの栄光を表現する媒体なのです(第一コリント六・19、20)。ある意味で一人の人なるイエスにおいて表現された神が、彼を長子として彼に続く者たちを、ご自分を表現するための器として整えておられるのです(ローマ八・29)。これが教会(召し出された者たち)であり、輝ける至聖所である新エルサレムにおいて、神の御臨在があますところなく表現されるのです(黙示録二十一、二十二章)。


神の御臨在の変遷

旧約時代には神は幕屋や神殿の至聖所に御臨在され、モーセ、ダビデ、大祭司、預言者のような特別な人々のみがその御臨在に与りました。その旧約は来るべき本体であるキリストの影でした(コロサイ二・17)。

かつて契約の箱は至聖所に置かれ、イスラエル人の中心にありました。それは神の御臨在であり、アカシヤ材(キリストの人性)に金(キリストの神性)を張った板で造られ、その中には、律法の石板(キリストの義)、芽の出たアロンの杖(キリストの復活)、そしてマナ(キリストのいのち)の入った金の壷が入れてありました。箱の上には贖いの蓋があり、その上に二つのケルビムが向かい合って、その蓋を見つめていました。そこには年に一度大祭司によって血が注がれたのです。被造物の象徴であるケルビムが、この蓋だけを見つめていることは素晴らしいことです。

不思議なことに旧約聖書ではある時から契約の箱の記述が途絶えます。多分イエスが十字架にかかったとき、神殿の至聖所にはなかったものと思われます。私はこれは神の意図的なアレンジであると考えます。なぜなら、契約の箱は影であり、その実体はキリストだからです。実体であるキリストが来られた以上、影はなくても良いのです。(ヘブル十・1,9、黙示録十一・19参照)。

そのキリストはあえて肉体を取り(ピリピ二・6-8、ヘブル十・5)、十字架でその肉体を裂いて神の小羊として血を流されました。この時天の真の至聖所において、大祭司であるキリストご自身が、犠牲の供え物であるご自身の血によって、ただ一度の究極の贖いを完成されたのです(ヘブル六・20、九・11-12、十・12)。

何のためでしょう。もちろん私たちの罪の贖いのためです。そこに留まらず、私達も大胆に至聖所に入り、魂の救いを得(ヘブル六・19)、いのちを得るためです(ヨハネ十・10、ヘブル十・20)。神がイエスの中のみでなく、私たちの内にも住まうためです(ヨハネ十四・19,20、十七・21-23、26、エペソニ・21,22、黙示録二十一・3)。こうして神の御住まいが拡大するのです。神は人の手による神殿に住まうことを良しとされません。神は人の内に住まうのです。また私たちも神の内に住まいます。その完成が新エルサレムです。


教会―キリストの御体・花嫁

神は現在、召し出された私たち個人個人の内に住まうと同時に、その集合体としての教会に御臨在されます。人が歴史的経緯の中で組織してきたいわゆる教団とか教派と、この意味での教会を同一視することによって多くの混乱が生じます。教会とはキリストの体であって、キリストの霊、また思い・意志・感情を表現する一人の新しい人です(ローマ十二・5、エペソ一・23、ニ・15、三・6、四・4)。キリストがその頭であり、教会はその頭の表現です(エペソ四・16、五・23、コロサイ一・18、二・19)。

この霊的な一人の新しいパースンが地上において、それぞれの地域にいろいろな形で植えられた存在がいわゆる地域教会です。教団や教派の人間的フレームではなく、その中におられる一人一人のクリスチャンがキリストの肢体であり、器官であるのです(第一コリント十・17、十二・12,14,20)。「教会はキリストの体である」という表現は文学的な比喩ではありません(第一コリント六・15)。それはリアリティです。キリストがリアリティであると同様に、私たちはキリストの体の肢体であることもリアリティです。

教会は燭台です(黙示録一・20)。私たちの目が体の光であるのと同様に、地域教会はキリストの目としてそれぞれの地域で輝きを帯びる必要があります。それは小羊の七つの目である神の七つの御霊の油によって輝くのです(黙示録五・6、注:この"七つ"は数を言っているのではありません)。

御子は見えない神の形であり、神性があますところなく形をとって宿っておられる方です(コロサイ一・15,19)。そのお方が御霊によって私たちの霊に宿り(第二テモテ四・22)、その生ける有機的集合体である教会においても、御子のご性質があますところなく宿り、表現されるのです(エペソ一・23)。すなわちキリストの体なる教会は、神の御臨在の拡大と言えます。神は一人のキリストにあって"人の間に"に幕屋を張り、次に"私たちの内に"まで幕屋を拡大されたのです。こうしてキリストはその御心の表現媒体としての体を得たのです。

また教会はキリストの花嫁であり、キリストは今私たちを花嫁としてしみも傷もないものとして整えて下さっています(エペソ五・21-33)。あらゆる癒しや聖化などはすべてこの文脈で理解すべきです。キリストは私たちをご自身のパートナーである花嫁として慈しみ、愛し、整えて下さるのです。(つづく)


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