フルコンタクト・ゴスペルH

霊が活きる道―福音の直接体験―


心のダイナミクス






心とは

聖書における心とは<魂と霊のあり方・相互作用の反映>と定義できます。つまり<内なる人となりの表現>と言えます。人は心にあることを口が語ります(マタイ六・21、十二・34、十五・18)。人を知るには何気なく言葉を投げ、何気なく帰ってくる言葉で分かります。普段抑制の効いている人ほど、何気ない言葉にその真実を吐露してしまうのです。

神はうわべではなく心を見ます。特に私たちの心はその動機において明確にされます。御言葉を見てみましょう:

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル十六・7)。

―神と人の関係において最も本質的なことです。神は私たちの内面をご覧になります。全被造物は神の御前ですべて露わなのです(ヘブル四・13)。

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記八・21)。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。」(エレミヤ十七・9)。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ十五・8)。

―私たちは以前は神を思わず、心は神から離れており、心に浮かぶものは悪いことだけでした。神に対して心を頑なにし、自分のことだけに占有され、取り繕いと偽りに満ちていました。

「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」(エレミヤ三十一・33)。「わたしは・・・彼らに一つの心と一つの道を与え、・・・わたしに対する恐れを彼らの心に与える。」(エレミヤ三十二・39,40)。

―しかし憐れみ深い神は新しい契約を立て、私たちの心に律法を置き、新しい霊と心を下さいました。私たちの魂の諸機能は以前とあまり変わっていないかも知れませんが、再生された霊との関わりにおいて、魂の内に神ご自身と御旨を求める新しいダイナミクスが展開するのです。これが新しい心です。


魂の反映

@思い:

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ五・28)。「すると、律法学者たちは、心の中で、『この人は神をけがしている。』と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。』」(マタイ九・3,4)。

―私たちの思いは心に反映されます。神の目から見ると、心の中で思ったこと・なしたことは、実際に言ったこと・なしたことと等価です。

A感情:

「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」(箴言十四・13)。「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。」(同十五・13)。「穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる。」(箴言十四・30)。

―私たちの感情も心に反映します。心が楽しければ、体も健やかになり、いのちが満ちます。心の状態が身体に深い影響を与えることは、現代精神身体医学も認めるところです。

B意志:

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」(箴言十六・1)。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら・・・」(マタイ十八・35)。

―私たちの意志も心に反映されます。自由意志こそは人類に対して神の与えた最も高貴なもので、これを私たちは乱用してはなりません。意志を用いて神の御旨を選択すること、これが信仰です。人を赦すことも意志の問題です。感情はどうであれ、意志を用いて赦しを宣言するのです。すると感情は御霊が癒して下さるのです。


霊の反映

@良心:

「心は清められて、良心のとがめはなくなり・・・、信頼しきって、真心から神に近づこう・・・」(ヘブル十・22)。「神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ」(第一ヨハネ三・20−21)。

―私たちの良心も心に反映します。私たちの良心が清められ、神の御前で真に安心できるのは、イエスの血によるのです。

A直覚:

「あなたの心を英知に向けるなら」(箴言二・2)。「知恵があなたの心にはいり、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。」(同二・10)。「私の命令を心に留めよ。」(同三・1)。「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」(同三・3)。

―神の御旨・教え・知恵を知ることは霊の直覚の機能ですが、それも心の中に反映されます。霊で受けた啓示を、魂の思いが解釈し、その内容が私たちの心の内に映るのです。

B交わり:

「心を尽くし、魂(原語)を尽くし、思い(原語)を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ二十二・37)。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。」(ローマ五・5)「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(第二コリント一・22)。

―神との交わりも私たちの心に反映されます。霊なる神を愛すること、霊なる神の愛が注がれること、御霊の御臨在を知ること、これは霊の交わりの機能によりますが、実際には心において経験されます。


心―いのちの培地

このように霊は私たちの存在の本質であり、そのあり方が魂に影響し、さらに相互に作用し合いながら心の中に反映され、時々刻々ダイナミックに変遷していくのです。霊によって受けとられたいのちのことばは、私たちの心の中で育ちます(マタイ十三・18-23)。よって私たちの心の状態はいのちの成長にとってきわめて大切です。そこで聖書は何にもまして、霊を制し(箴言二十五・28;原語、マラキ二・15,16、ルカ九・55;欄外注)、心を神に対して正しく保つべきことを奨励しています。

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ五・8)。

―"きよい"とは二心ではなく(ヤコブ一・8)、神に対して"純潔一筋である"ことを意味します。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ六・21)。

―動機において神を第一とすることです。心のあり方は、自分が何を第一としているかによって判断されます。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言四・23)。

―キリストにあって得た新しいいのちは、信仰によって心の中に実体化され、主観的に経験されます。私たちの心にはすでに尽きない永遠のいのちの泉があるのです(ヨハネ四・14)。

単純に言って、霊と魂が相互作用すると、<良心>は<意志>に影響します。良心が安んじていれば、神の前での確信をもった意思決定ができます。<直覚>は<思い>に影響します。霊で受けた印象は思いによって御言葉と照らしながら解釈され、観念化され、言語化されます。<交わり>は<感情>に影響します。霊なる神との霊における交わりは、私たちの感情に触れ、感情を沈静し、その愛が甘く迫り、歓喜を生みます。

紙面の関係でこれ以上深入りしませんが、心の論点で最も大切なことは、新約の私たちには石版に書かれた律法ではなく、心に書かれた律法があり(ヘブル八・10、十・16)、頑なな心は御霊による割礼を受けて(エレミヤ四・4、ローマ二・29)、新しい肉の心(柔らかい心)を得たのです(エゼキエル十一・19、三十六・26)。この心を神の御前で頑なにすることなく、絶えず御霊の働きかけに開いている必要があります(ヘブル三・8,12)。

こうして魂と霊が分離され、魂が霊に服するようになると、私たちの心の中には霊的な判断・行動のパタンが展開し条件付けされるようになります。即ち<環境→霊の認知→思いでの解釈→意志決定→体の行動→感情・情緒の満足→いのちの成長>です。

これが霊の人(第一コリント三・1、原語)です。御霊はこの霊主導の認知行動パタンを実現するため、信仰を息吹き、油を塗り、知恵と力を備えて下さるのです。またあらゆる真理に導きます。私たちはその油塗りに信頼して、そこに留まるのです(ヨハネ十六・13、第一ヨハネニ・27)。素晴らしい平安と安息の中で、キリストにある新しいいのちを享受します。キリストの内的経験が私たちの心で再現し、追体験されます。こうしてキリストの形が私たちの内に造られていきます。(つづく)


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