フルコンタクト・ゴスペルA

霊が活きる道―福音の直接体験―


霊-神の御臨在の場






霊の再生

クリスチャンになる以前には、人は神を認めず、知性で神について思い巡らしたにしても、神の本質に触れることはできません。知性によっては神を認めるに至りません(第一コリント一・21)。霊である神を感知するには霊によるべきなのですが、罪によって霊が死にその機能を失っているからです。霊が死んだ結果、すでに述べたとおり、人は魂と体によって生きる存在=肉となったのです。霊はあたかも存在しないかのような状態です(ユダ19節、原語)。霊は肥大化した魂によって圧迫されているのです。

その結果、私たちにとってのリアリティは、目に見えるもの、五感で感知できるものだけでした。その中において私たちは「自分の罪過と罪の中に死んでいた者であり、・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と思い(原語)の望むままを行」っていたのです(エペソニ・1,3)。ここの死とはもちろん霊的な死を意味します。

私たちの魂を特徴付ける主要な機能は思い(mind)です。そのベクトルは常に自己(self)に向いており、すべての価値観の基準は自己でした。「私は」、「私が」、「私の」がすべてでした。このように魂によって生きる人を、"魂の人(Psychical Man)"と言います(第一コリント二・14、原語)。私たちの肉は、内に住む罪(Sin)と神を意識しない自己(self)から構成されます。

ニコデモがイエスの元に来た時、主は神の国に入るためには新しく生まれなくてはならない、と言われました(ヨハネ三・3)。ニコデモが、歳をとってからどうしてもう一度生まれることができるのか、と問いますと、イエスは「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(同6節)と答えました。二人の間の"新しい誕生"の意味がまったく異なっているのです。ニコデモは物理的誕生を、イエスは霊的誕生を言っています。私たちがイエスに信仰を置いたとき、御霊が私たちの霊を再生し、新しく生まれさせて下さったのです(ヨハネ一・12,13)。

これは奥義であり、知性では理解し得ません。御言葉に書いてあるので、そのとおりに信じるのです。それはキリスト・イエスとの一体化(同一化:Identification)によります。すなわち、「もし私たちが、キリストの死の様につぎ合わされるなら、必ずキリストの復活につぎ合わされるからです」(ローマ六・5、欄外注)とあり、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせて下さいました」(エペソニ・5,6)とあります。鍵はキリストの死と復活に結合されること、キリストの中に置かれ、キリストの経験が私たちの経験とされることです。私たちは主と結び合わされて、主と一つ霊とされているのです(第一コリント六・17)。これはすべて十字架の御業の霊的効力であり、信仰によって主観的に経験化(実体化)されます。

霊である神を礼拝するには、霊を用いる必要があり(ヨハネ四・24)、神に仕えるにも霊によって(ローマ一・9、七・6、十二・11)、自分の心の奥を知るのも霊によって(第一コリント二・11)、神の啓示を受けるのも霊によるのです(第一コリント二・10、黙示録一・10)。「人間の息(霊)は主のともしび、腹の底まで探り出す」(箴言二十・27)とあるとおり、霊こそが私たちの内に灯る神の光源なのです。あらゆる霊的ディメンジョンに関わる鍵は、この霊の再生にあります。


御霊の臨在の奥義


私たちの霊が再生されると共に、主が私たちの霊に御臨在されます(第二テモテ四・22)。主を証しするのは御霊ですから、御霊が私たちの霊に御臨在されるのです。御霊はイエスのことばとわざ、そしてパースンを証しされます(ヨハネ十四・26、十五・26、十六・13-15)。御霊の臨在はイエスの臨在と等価です。


しばしば「御霊をもっと注いで下さい」という祈りを聞きますが、これは少し見当外れです。なぜなら御霊はパースンであって、切り売りされる存在ではありません。イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われたとき、弟子たちは聖霊の全パースンを受けたのです。私たちも同じです。

またイエスは真理の御霊が来られる時には「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる・・・わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハネ十四・20,21)と言われ、さらに「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(同23節)と言われます。真理の御霊を受けることは、同時に父と子も受けることなのです。"わたしたち"が来て住んで下さるのです。

神の三位一体は私たちの知性を超えます。父が天におられ、御子はその右に座し、聖霊が地上に注がれていることは事実ですが、同時に父が子におり、子が父におり、その事実を私たちの内の御霊が証しして下さるのです(ヨハネ十四・9-11、十七・21-23)。父、子、聖霊は三人の神ではありません。パースンとしての区別はありますが、相互に内住される一人の神なのです。私たちの内の御霊は父と子も証して下さるのです。すなわち神格のすべてが内住し、御臨在して下さるのです。私たちは異教的な三神論に陥ることも、反対にサベリウスの様態論に陥ることにも警戒すべきです。そのためには"認知のフレーム"を設けることなく、聖書の御言葉をそのまま語ればよいのです。

私たちの内における神の御臨在は奥義です。私たちの霊はいわば天の御座に直結しているのです。天が降りて来て下さったのです。霊が再生された私たちには完全なる神が御臨在下さるのです。私たちは神の神殿であり、神の宮です(第一コリント三・16,17、六・19)。新天新地においては、神の御臨在そのものである新エルサレムが地に下り、神と人が共に住むのです。これは私たちの制限された思いをはるかに超える素晴らしい真理です!


御霊の照明

信仰とは、あたかも光を見るために目を開け、また音を聞くために耳をそばたてるように、目に見えないスピリチュアル・リアリティを感知するために、霊をチューニングすることなのです。それは意志決定の問題です。そのリアリティはすでに御言葉に啓示されていますから、具体的には御言葉に注意を向けることなのです。簡単です。

そのとき内にいます御霊が御言葉と共に働いて、私たちのうちで霊的な光を放って下さり、知性のレベルではなく、霊のレベルで御言葉が開かれるのです。「御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与える」(詩篇百十九・130)とあるとおり、その人の知性がどのようなものであれ、霊的な洞察を得るのです。目で光を見ることや、耳で音を感知することは、知性とは別の次元のことです。同様に霊的な光を見ることも、知性とは別の次元のことです。

神の御言葉は神の息吹き(第二テモテ三・16、原語)、すなわち霊ですから(ヨハネ六・63)、そこに啓示されているリアリティは、まず私たちの霊によって感知されます。その次の段階として、目で見た色や耳で聞いた音を魂の諸機能が情報処理するのと同様に、霊で感知された事柄を思い(知性)が解釈し、理解するのです。このレベルにおいては思いの特性が重要になります。特に御言葉の蓄積とそれに対する理解力が必要です。このとき魂が主導権を握るのではなく、むしろ霊が魂を用いるのです。

さらに霊は、人の内の深い真実を探り知るのです(第一コリント二・11)。同時に御霊はやみの中にあるすべてを探り、はかりごとも明らかにします(同四・5)。精神分析や自己内省によって自分の内を探っても、そこには暗闇があるだけです。また事態の本質を知性で分析しても表層が見えるだけです。しかし、御霊によっていのちの光が私たちの霊にもたらされる時、自分の真実も事態の本質も一瞬のうちに見えるのです(第一コリント二・15)。なぜなら「私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」(詩篇三十六・9)。私たちの霊と御霊が相互作用するとき、霊的な光が輝きます。


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