ダイレクト・カウンセリングA

主役はキリスト、自分は脇役



今回はロマ書とガラテヤ書を中心に罪と肉の話をします。この手紙の著者パウロは、ガマリエルという当時の一流学者のもとで薫陶を受け最高の学問を修めた人物です。そのパウロがローマ書七章で苦しんでいます。


罪の法則と肉の問題

彼は罪が赦され、律法から解放されているにもかかわらず、「私には自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(15節)と告白し、ついには「自分は何と惨めな人間か」と叫んでいます(25節)。

なぜこのような葛藤に追い込まれたのでしょうか。二つのポイントがあります。第一は法則の対立です。すなわち、神の律法を守ろうとする内なる人の「思い(原語)の法則」に対して体にある「罪の法則」が戦いを挑み、パウロはその法則に拘束されているからです(21-23節)。

皆さんもどうでしょう。クリスチャンになった当初は解放感を味わっても、クリスチャンとして良いことを行おうと意識し始めるとかえって苦しくなったことはありませんか。パウロもまた「私は自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なっています。」(19節)と告白します。魂は何かをしよう(しまい)とすればするほど、できなくなります(してしまいます)。これを精神病理の用語で「精神交互作用」と言います。

すると自分がしたくないことをしているのであれば、それは罪のしわざです(20節)。あなたでも私でもありません。このことを知ることは解放です。私たちの体には罪が住んでいます(17節)。この罪が罪を犯すのです。しかし私たちには罪に自分の体を委ねない責任があります(6:13)。実印を人に渡してその人が借金したら、借金したのはその人ですが、実印を渡してしまった責任が私にはあるのです。

このとき法則に対しては法則で対抗します。自己努力はあたかも自分で髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするようなものです。しかし「飛行の法則」が「引力の法則」を無効にするように、「命と御霊の法則」は「罪と死の法則」を無効にします(8:2)。コツは法則に身を任せることです。

第二は肉の存在です。御霊と肉は葛藤するのです(ガラ5:17)。人が救われるならば直ちに霊の再生が起きます。しかしこれまでの生き方が心身に染みついているのです。「パブロフの犬」をご存知でしょう。ベルを鳴らしながら餌をあげることを繰り返していると、犬はベルを鳴らしただけでよだれを垂らすようになります。

同じように、霊が生かされた後も、私たちの体や精神には神を知らないで生きていたアダムにある古い人の生き方が刷り込まれているのです。これが肉です。ここで古い人と肉の違いに注意してください。そして肉は改善したり矯正したりするのではなく、私たちがすでに十字架につけてしまったのです(ガラ5:24)。よって今や肉に従って生きる責任を肉に対して負っていません(ロマ8:12)。

いずれの場合も大切な点は、内なる罪は私ではありませんし、肉も私ではありません。これが罪との葛藤から解かれる鍵です。


罪には単数形と複数形がある

ここでひとつ注意してほしいことがあります。邦訳では分かりにくいのですが、ロマ書六章より前にある罪は複数形です。それは私たちの行為としての「罪々(sins)」なのです。一方七章に出て来る「罪(Sin)」は単数形です。このように、罪には単数形と複数形があることを覚えてください。

イエスさまは罪を負って、ご自身の血で洗って下さいました。ここで大切な点は、それは複数形の罪々です。つまりイエスさまの流された血は私たちが犯した個々の罪を処理するのであり、その処理された罪を神は二度と思い出されません。クリスチャンの中にも自分が過去に犯した行為で苦しんでいる人がいます。その行為を自分の負うべき十字架だと勘違いしているのです。神は私たちが犯したどんな罪も、それを血潮のもとに持っていくならば思い出さないと言っておられます。つまり忘れて下さるのです。

ただし、単数形の罪はまだ残っています。これはイエスさまが再臨されて、私たちの体が贖われるときに完全になくなります。ですからパウロは「御霊の初穂をいただいている私たち自身も心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」(ローマ8:23)と言います。


古きは過ぎ去り、すべてが新しい

それではこの単数形の罪をどうすればよいでしょうか。単数形の罪は「罪と死の法則」に従って、私たちの体・精神・心理面の様々な欲求に刺激を与えます。救われる以前のアダムにある古い人はこの罪の刺激を受けて行為としての罪を犯してきました。古い人は霊が死んでおり、神からも離れているため、この誘惑に勝つことができなかったのです。

では救われて霊が再生されたキリストにある私たちはどうでしょうか。神は単数形の罪を処理されたのではなく、古い人を十字架につけました。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(6:6)とあります。

これは未来の事ではなく、「つけられた」という過去の出来事です。古い人は二〇〇〇年前すでに死んでいます。ですから罪は媒体を失ったため、刺激を受けて罪を犯してきた体も「滅びて」しまいました。新改訳聖書の欄外には「無力となり」とあります。ギリシャ語の意味は「失業状態にある」です。これは操り人形に喩えることができます。かつて罪は古い人(=糸)を操り、その体に罪を犯させてきましたが、今や古い人の死によって糸を切って下さったので、体は罪に対して無効力になったのです。ただし古い人の死は私の記憶とかアイデンティティーの連続性が消失することではありません。

さらに神はアダムにある古い人を十字架につけた代わりに、新しい人を得させて下さいました。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリ5:17)。これもまた完了形です。たとえ新しく変わったように感じなくても、このことを信じるのです。生きているのはもはや私ではなくキリストであり、肉にあって生きている私は神の御子への信仰によって生きているのです(ガラ2:20)。私は主役を降りて、内に生きて下さるキリストに信頼し、私は脇役のように生きるのです。

確かに私たちの大脳には古い人の記憶が残っていますが、それは現在の私自身ではありません。もしその古い自分の痕跡を見つめてしまうと、しばしば自分を責めることになり心の病気に陥ることもあります。この古い人の痕跡である肉を分析して改善しようとすることは無意味です。肉は死にふさわしいのです(ガラ5:24)。

すでに神は私たちに、新しい人=内に生きるキリスト、を得させて下さいました。もし皆さんが「神の御旨を行いたい。喜ばれたい」と求めているならば、新しい人を得ている証拠です。この新しい人にあって生きるようにして下さるのが御霊なのです。

パウロはロマ書とガラテヤ書で、肉に従って生きるのか、御霊に従って生きるのか選択せよ、と言っています(ロマ8:13;ガラ5:16)。ここに神が単数形の罪を除かれなかった理由があります。それは人には自由意志があるからです。肉に従うか、御霊に従うかという選択は、私たちに任されているのです。それは自分と神のどちらを愛するかにかかっています。

もし罪の唆しによって肉に従って生きるならば、クリスチャンであっても罪を犯します。すると「クリスチャンなのに罪を犯した」と自分を責め、サタンもここぞとばかりに罪定めします。ですから、私たちは肉に注意するのではなく、御霊によって新しい人に生きてもらいましょう。これが神の罪からの解放の方法です。すると新しい人が私たちの体を用いて義の行為をして下さるのです。


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