ダイレクト・カウンセリング@

真のカウンセラーはイエス

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(イザヤ9:6)


真のカウンセラーとは

ここにある「不思議な助言者」は、英訳では「ワンダフル・カウンセラー」と書かれています。そこでまず大事なことは、そのカウンセラーとはどなたであるかということです。

確かに世の中にはいろいろなカウンセラーや精神科医、精神分析医などがいますし、教会の中にもクリスチャン・カウンセラーと名の付く人はいます。けれども、真のカウンセラーは人ではなく、「ひとりのみどりご」であるイエスさまです。この点をしっかりと覚えておいてください。

では、人は一体何ができるでしようか。カウンセラーとして人が行う働きは、この真のワンダフル・カウンセラーであるイエスさまのもとにお連れすることなのです。イエスさまとのダイレクトな出会いがあれば、私たちが抱えている様々な問題、悩みはおのずと解けてきます。このお方が解いて下さるのです。イザヤ書九章六節にもあるように、「力ある方」ですから、この方には解決できない問題などありません。このワンダフル・カウンセラーに個人的に直接カウンセリングをしていただくことが「ダイレクト・カウンセリング」です。日本ではまだ一般には知られていませんが、私の師であるイギリスのコリン・アークハート氏(Kingdom Faith Ministries) が提唱しています。

しかし、クリスチャンの中にも、いろいろな先生やカウンセラー、ミニストリーを渡り歩いてしまう人がいます。それは、人を見ているからです。イエスさまはどこにでもおられます。聖書にもあるように、「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:18)


イエス・キリストとの交わりを邪魔するもの

ただし、このワンダフル・カウンセラーであるイエスさまのもとに行こうとするとき、障害が出てきます。それは、私たちがまだこの古い体を持っており、魂には様々なトラブルを抱えているためです。そのため、このお方との直接的な交わり、ご臨在に入ることが邪魔されています。この邪魔物を取り除くのを手助けするのが私たち人間のカウンセラーの仕事です。

そこで、@イエスさまとの交わりを阻止する罪とは何か、A私たちのいろいろなトラブルの元になっている肉とは何か、B神の処置・治療 ―の3点について説明していきたいと思います。

まず第1番目の「罪とは何か」。私たちは自分に罪があることを知っていますが、その罪を神さまはどのように処理して下さっているのでしょうか。

ローマ人への手紙には、一人の人アダムの違反によって全人類に罪が入ったと書いてあります。(ローマ5:12)。アダムとエバはエデンの園で何不自由なく、神さまのご臨在の中で生きていました。そして神さまは、「エデンの園にあるどの木からも取って食べて良い」と言われました。しかし「園の中央に生やした二本の木のうち、善悪を知る知識の木の実は取って食ぺてはならない」と命じられ、「食ぺるならば死ぬ」とおっしやいました。

しかし人間とはおもしろいもので、駄目と言われるとやりたくなるものです。例えば、心理学にこんな実験があります。密室の中に一人の被験者を置き、その人の目の前に箱を置きます.そして「この箱の中を見てはいけないよ」とあらかじめ言っておくのです。そうして、一人になった被験者の様子をマジックミラーを通して観察します。

すると、披験者は目の前に開けてはいけないと言われた箱がある。でも、この部屋には自分一人しかいない。どうしよう」と葛藤し始めるのです。もしその箱を部屋の隅に放置しておくならば、人は気にしないのですが、「開けてはいけないよ」と言われると気になるものです。

アダムとエバも同じ状況に置かれました。彼らは神さまから「知識の木の実は食ぺるな」と命じられていました。ところがサタンの誘惑に引っかかり、その実を食ぺてしまったのです。その結果、彼らは自分たちが裸であることに気づきました。以前は自意識がなく、神さまだけを見ていたので、自分のことは見ていなかったのです。ちょうど子供が裸で飛び歩いても気にしないのと同様です。しかし、思春期に入ってくると、人は自意識に目覚め、何となく以前とは違う雰囲気になってきます。つまり、善悪を知るということは、相対的価値観をもち、自意識に目覚めるということなのです。


体・霊・魂の順に成立

それでは、人間はどのような構成で成り立っているのでしょうか。へブル語に忠実に訳してあるDarby訳聖書などを見ますと、「神は人を土のちりから創り、その鼻に命の息を吹き込むと、人は生きる魂になった。」(創世記2:6)と書いてあります。「息」とは「霊」を意味します。

まず一番外側は体です。体の部分は、熱い・痛い・明るいなど、いわゆる物理的なものと接触し、外界を知覚することができます。神さまはその体を土から創られたと聖書は言っていますが、事実そのとおりです。私たちの体の成分はきわめて地球の成分と似ているのです。

次に、神さまはその体の中に霊を吹き込みました。ですから人には霊があります。おそらくこの霊と体との間で何らかの相互作用があり、魂が生まれたものと思われます。魂とはいわゆる精神=心理のことです。これをギリシャ語ではプシュケ(Psuche)と言い、サイコロジー(Psychology)の語源となっています。

この魂は三つの機能を持っています。一つ目はいろいろなことを考える「思い」、二つ目は様々なことを感じる「感情」、三つ目は自分で選択などをする「意志」です。いわゆる知情意のことで、喜びや悲しみ、怒りといった精神的な現象が超こる部分です。言ってみれば、自分というアイデンティティを感じることができる自我の座と言えます。

霊については、ヨハネの福音書で「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(4:24)と語られています。最初アダムとエバが創られたとき、彼らは神さまと霊において交わっていました。しかし、罪が入ったために死が入ってきました。そして真っ先に死んだのは、肉体ではなく、この霊なのです。したがって、霊である神さまとの交わりが遮断され、人は内側に暗さを持つようになりました。しかも命の木に至る道も閉ざされたのです(創世記3:24)。これが堕落です。そして、「神などいない、見ることも感じることもできないのだから」と人は言うようになったのです。

人は霊が神に対して死に、自分の生を担保するため、また内的な空虚さを満たそうとして、自分の魂(思い、意志、感情)、あるいは体を使って必死に生きるようになりました。これが堕落の結果であり、特に魂を肥大させたことが心の諸問題の根本原因です。


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