神の予定と人の自由意志について

■本稿は小牧者出版「幸いな人」2001年9月号掲載の特集記事の原稿です。


救いは信仰のみ

クリスチャン生活において最も重要なポイントは、信仰と従順です。信仰とは神の意志、招き、みことばに対する私たちの積極的な応答です。救いを受けたのは私たちの行ないによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるとあります(参/ロマ3:21〜31、エペ2:8,9)。人はだれも自分の行ないによっては義とされることはありません。ただイエス・キリストを信じるとき、救いは無代価で与えられるのです。それはだれも誇ることがないためです。


問題提起

ところがここに、神の予定と人の自由意志に関して、とても深刻な問題が生じるのです。聖書はクリスチャンに対して、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」(エペ1:4,5)と言います。そこで神の選び、あるいは予定という問題が出てきて、「救われた人は選ばれていたから救われた」とするならば、「では選ばれていない人はどうなのか」という疑問が生じます。

別の言い方をすれば、神の意志と人の意志の調和の問題ということになります。神の選びによって救われるのであれば、それはあたかも人の意志とは無関係に、神から一方的に救いを押し付けられたようにも感じられます。そこには人の自由意志が入る余地などないかのようです。反対に、救いを受け入れない人は神の選びがなかっただけで、その人には責任がないかのように思われます。まるで、救いは神の気まぐれによるといった印象すら生じてくるのです。


救いの具体例

ここで救いについて、私の経験を例として考えてみたいと思います。

(1)私は救われる前まで、「青春の蹉跌(つまずくこと)」で泥沼に落ち込んでいました。愛していた女性との結婚を取るか、大学院での研究を取るかという選択を迫られた私は、利己主義によって後者を選びました。私は彼女を裏切っただけでなく、自分の心をも裏切ったのです。私は時間が経過するにつれ、取り返しのつかないことをしてしまったことを知り、後悔と葛藤に責めさいなまれるようになり、心は傷つき、カラカラに渇き切った状態にありました。

(2)そんなとき、私の側からしますと、「たまたま」1人のクリスチャンと出会い、彼から福音を聞きました。

(3)特に「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハ7:37,38)ということばに引かれました。「この『水』とは何のことだろう。よくわからないが、とにかく飲みたい!」と感じたのです。

(4)そこでイエス様を受け入れたいと願い、その意志表示をしました。

(5)結果として神様の愛に触れ、私の心の渇きはいやされたのです。

これが私の場合の救いのプロセスでした。この間、だれかに強制されることもなく、神が選んでいてくださったという認識もありませんでした。ただそこに居合わせた1人のクリスチャンの語る聖書のことばに応じただけでした。以上の過程をもう少し詳しく分析してみます。

(1)このような状態になったのは、私の自由意志による不誠実と、自分本位という罪が招いた当然の結果でした。これはごく普通にこの世において起きていることであって、これ自体には何も特別なことはありません。

(2)このような状態の中で、私が1人のクリスチャンと出会ったことについて、当時の私は単なる偶然だと思っていました。しかし、どうしてそのようなときに彼がそこにいてくれたのか、これはとても不思議なことです。ここに私の意志が関与する余地はありません。それを単なる偶然(確率論)と見るか、だれかが用意してくれた(神の摂理)と見るか、これが不信仰と信仰の分岐点です。

(3)みことばに対して、私の内なる欲求が生じたわけです。この欲求自体は私が自分の意志でコントロールできるものではありませんでした。のどの渇きが生じるのと同じことです。ここには私の意志は直接的には反映しませんが、この事態を招いたのは、利己主義的な自分の意志が大きな原因であったわけです。

(4)内なる渇きをいやしたいという願いを得て、意志表示をしたわけです。これは完全に自分の自由意志を用いた結果でした。のどの渇きをいやすのに、水を飲むのか、コーラを飲むのか、それを選択するのと全く同様のプロセスであり、私はイエス様によっていやされることを選択したわけです。

(5)私の意志表示を神は受け入れてくださり、それにこたえてくださいました。その結果として、私の心の渇きはいやされたのです。

このプロセスは、私の意志と神の意志がちょうど凹と凸のように見事にはまり合って進んでいます。私の意志は神の意志によって損なわれることなく、神の意志も私の意志によって損なわれてはいません。


神の意志と人の意志の調和

ここで神の意志と人の意志について整理してみましょう。神はすべての人が救いを受けることを願っています(神の意志)。そのための手順は、イエス様の十字架と復活の御業によってすでに完成しています(神のわざ)。後は人が自由意志でそれにどう応答するか(人の意志=信仰)ということが残されているわけです。

次のような場面を考えてみてください。三位一体大学が「1+1=□を解きなさい」という入試問題を出しました。解答はもちろん「2」です。学長である神はすべての人の合格を願っています。そこで神はこの解答を、キリストの十字架にその血で書いてくださって、すべての人がそれを見ることができるようにしてくださったのです。神の望んでおられることは、単純に人がこの正解を選ぶことです。

しかし人は思います。「本当にこれが正解かな?」あるいは「自分は独力で解きたいのだ」と。神は決して強制はされませんから、私たちには選択の自由があります。私たちは神の提示してくださっている正解を、自分の意志を用いてただ信じ、単純に選べば良いのです。ところが私たちは周りにある「4」、「6」、「7」…などの「解答」に目移りし、迷ってしまうのです。

ここで私たちが正解の「2」を選ぶならば(信仰)、神の意志と人の意志がピタリとはまります。もし神様が私たちに正解(救い)を用意してくださっていなければ、神の愛と義の証しは損なわれたものとなるでしょう。しかし正解が用意されているのに、私たちが信じないで拒否するなら(不信仰)、それは私たちの責任となります。これが神の意志と人の意志との関係です。そして晴れて三位一体大学に入学した者たちには、「おめでとう。あなたがたは選ばれてこの大学に入ったのです」という学長のことばが待っています。


巧緻な救いの摂理

クリスチャンにとって、救いの経緯は1人ひとりすべて異なりながらも、それぞれみなすばらしいプロセスがあり、神の意志と人の意志が微妙に織りなされて構成されています。ですから、とても一般論として語ることはできません。ただ言えることは、救いは神の気まぐれではなく、極めて精巧かつ緻密に構成されているものなのです。私たちとしては、すでに完成されているわざに対して、自由意志を用いて応答するだけなのです。十字架は神の愛と義が矛盾なく証しされているところであり、また神の意志と人の意志が互いに損なわれることなく出会う場所でもあるのです。



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