Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2005.01.23



いのちの務めJ−いのちと働き−

教会はいのちの有機的な共有体です。人間的な取り決めや主義主張や神学の立場によって結ばれるのではなく、ただキリストのいのちを分け与え合い、交換し、育て合う場です。自分の教会を大きくしようとか、働きを大きくしようとすることは罠になります。分に応じた働きで十分であり、働きに心が削がれると命を殺しますし、お互いの間に葛藤や軋轢が生じてきます。何を一番大事にするか-いのちの共有です。神は元々私たちがいのちにあずかることを意図されたのであって、自分の働きや団体を大きくすることではありませんでした。すべてを単純化して残るものはいのちだけです。このいのちをエンジョイして生きることそのものが、ある意味で私たちの働きです。いのちと生きることはひとつです。いわゆるクリスチャン的なミニストリーとか働きを人工的に推進してもいのちを広げたことにはなりません。いのちは私たちの何かによらず拡大するからです。現在のKFCは働きは控えており、いのちに焦点をおいています。様々のムーヴメントや「新しい霊の流れ」といったものから離れて、いのちの流れの中に留まり続けることを第一としたいと願います。福音も相手に聖書の教えを仕込んだり、クリスチャン的振る舞いをさせる訓練を与えることではなく、いのちを与えることです。外側のモロモロもの規制や縛り、もっと言えば宗教から解かれて、いのちを楽しむ経験へと導かれることができれば幸いです。



1.福音の本質

@教えではなく、いのちの分与と共有:”teaching people”から”reaching people”へ

A焦点をどこに置くか:現在の教界は働きに置かれすぎている→消耗する
・働きをどうするか思案するようになったらやめたほうがよい(油塗りの欠如の証拠)
・いのちの度量に応じてのみ、働きが育つ(身の丈に合う働き)


B働きはギブスのようなもの:水の注ぎ、栄養の注ぎ

CKFCの現状:働きは押さえ気味に、いのちに焦点を置いている


2.いのち(life)とは生きること(live

@神の御心(イザヤ57:15-21)

Aいのちは霊の流れの中にある→霊の流れに浸るうちに自然としみこんでくる

B私たち(=教会)は神の畑、私たちは神の同労者(1コリント3:9)

C教会は主義・主張・神学の立場でひとつになるのではなく、いのちの共有による

D礼拝は神の前で休み、ただ神に賛美を捧げ、神を味わうこと


■暗証聖句:イザヤ57:15

わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし命を得させ)、砕かれた人の心を生かす命を得させる)ためである。