御臨在に渇く時に|キングダム・フェローシップ

ご臨在に渇く時に



修道院に入った初めの頃、黙想の時間に私は決まって死、裁き、地獄、天国、それに自分の罪についていつも考えていました。このようなことを数年の間続けて、心の中を注意深く考察してきたのです。夜、床についている時も、昼、仕事をしている間にも、私と共におられる主の臨在を覚えました。

そして、ようやく決められた時間の祈りの時に神を恐れることなく、大きな喜びと慰めを受ける時となり、この訓練によって、より高く深く神を尊ぶことを学ばさせてくれたのです。

さて、このように訓練を始めて10年間は、さまざな思いに自分自身が悩まされました。私は神を礼拝していないのではないかという恐れ、また私が過去に犯した罪をいつも思い出して、神が私のためにして下さった大きな分に過ぎた恵みが、かえって苦しみの原因となるほどでした。また、このような恵みを私が受けているというのは、私の思い過ごしの結果であるように信じられて来たり、他のちょっとした困難な出来事が起こったら、すぐになくなってしまうような信仰であって、故意に錯覚しているのだと思ったり、私のためには何らの救いもないのだと時々考えて悩まされました。

しかし、私たちは理性ある造られた存在なのだから、私のために与えられているのは、ただ信仰だけなのだと、神は私に考えさせて下さいました。そう考えることによって、苦しみ日々が終わって私は何も思い煩わなくなった時、神に私が持っていた信頼を低下させられるようなことはなくなり、私の信仰をひたすら増し加えていただくために仕えてきました。やがて、私自身がまったく変わってきたことに気づき、その時からこの平安の秘訣を保つ時には、私の魂にたとえ苦しみが加えられても、奥深く内にある平和のあることを感じ取ることができました。

それからは、信仰により愛と謙遜を持って神の前に生活することができるようになり、神を悲しませることなどは一つとして考えられなくなり、何事をするにも無理な努力をすることもなくなりました。そして自らの力でできることをやるというよりも、神が喜ばれることを、神が私と共にして下さるのを望むようになりました。今は私が何かの仕事を終えたとき、それを自分がなしたのだと思うことはいたしません。

現在の私には苦しみも困難もありません。なぜなら、悩みや苦しみが来たとしても、神が共に戦ってくださると信じています。また、すべての事柄をしとげなければという努力も、神の命令に従い、ただ神に真実な愛を持って仕えるのみです。私は、どのような種類の黙想も、定められた祈りの時間も、あえて持つ必要を感じませんでした。むしろ、神の潔い臨在の中に居り続けるように励みました。ただ単純に神のみに心を傾け、神のみを熟知しようと努める行為を神の臨在の実際性と呼んでいます。言葉を変えて言えば、習慣によって習得できる方法とも言えます。沈黙の中で神と密かに語り合う魂の状態は、私の内側が喜びに満たされ、あふれ出てきて制しきれないほどです。

神へ注意を向け、情熱を持って神を注視するという単純な方法で、私はしばしば大きな甘美と喜びに溢れてきました。それはあたかも母の胸にいただかれている甘さと喜びのようでした。あえて言わせていただきますと、神の中にあるこの言葉で言い表せない、味わいを経験していますので、他のいかなる喜びに比してこの経験を選びます。

私の決められている祈りの時間に、しばしば感じるのですが、ちょうどし彫刻を造ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻家の前に置かれている石のように、神のみ前に置かれて,私の魂の中に神の完全な御形を造ろうとして、私に臨んでおられる神を思います。神御自身のように私を完全に似せようとしておられるのです。また祈るように導かれる時、自分で努力することなく、魂の安息に入り、神の中に憩うことができるようになりました。


■出典:「敬虔な生涯」、ブラザー・ローレンス/仲 行男訳、CLC暮らしの光社、pp.38-40


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