神への訴え −試練を乗り越える秘訣−


弁護士  持田明広

1999年11月31日
2000年10月 4日改訂



■氏は北浜エステール法律事務所を所長(→持田氏の証)。本稿は、1999年10月23日(日)、インタ−ナショナル ・バイブル・チャ−チ(IBC)の第二礼拝での奨励に、修正・加筆したものです。


詩篇13篇1〜6節:

指揮者のために。ダビデの賛歌。

1.主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
  いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。


2.いつまで私は自分のたましいのうちで、思い計らなければならないのでしょう。
  私の心には、1日中、悲しみがあります。
  いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。


3.私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。
  私が死の眠りにつかないように。


4.また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。
  私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。


5.私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。

6.私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。



T.試練を乗り越える秘訣

本日のテキストの箇所は、ダビデが長く続く試練の中で作った詩篇であります。ダビデが遭遇した苦難が何であったのかはよくわかりませんが、おそらくサウル王による迫害であったろう、と言われています。ダビデは、有名なゴリアテとの戦いに勝利をおさめた後も次々に大勝利をおさめ、一躍国民的英雄になりました。しかし、サウル王はそのダビデの人気をねたみ、一転してダビデを執拗に追いかけて殺そうとするようになりました。

それは、やがてイスラエルの王となることが約束されていたダビデにとって、神の重要な訓練の時であったのですが、当のダビデにとっては、「いつ殺されるかわからない」という恐れと不安の状況が続いた、大変辛い辛い時でありました。1節に「主が私を永久にお忘れになる」、2節に「一日中悲しみがある」、3節に「死の眠りにつかないように」などという表現がありますが、これらの言葉からも、ダビデの試練がいかに大きく、その悲しみ、苦しみが非常に深いものであったことがうかがえます。

私も、弁護士という職業柄、身の危険を感じたことが何度かあります。ある時は、防弾チョッキと防護用の催涙ガス銃を身につけて、通勤し続けたこともあります。そのようないつも身の回りを警戒しながらの生活をしていると、1週間もすれば、精神的にも肉体的にもヘトヘトになってきます。その時、私は、いつも命を狙われながら生活されていたイエス様やダビデ、エレミヤ等の心境がどんなに大変なものであったか、少しわかるようになりました。

私達は、ダビデのように、命にかかわるような大きな試練に遇うことはめったにないでしょうが、誰でも多かれ少なかれ、生きて行く中で、試練に遭遇致します。その時に、私達は一体どのように試練に対処していったらよいのでしょうか?今日の詩篇の箇所は、それを学ぶ上で非常に参考になります。ダビデの祈りの体験を通して、私達は、試練を乗り越える秘訣について学んでみたいと思います。


U.神に訴える


1.まず第1番目は、目を上げて神に訴える、ということです。

ダビデは、1節で「主よ。いつまでですか」と叫んでいます。そして、2節までに、何と4回も「いつまで」と主に向かって叫んでいます。これは、一見すると、主に対して不平不満を述べているように見えますが、根底には主への信頼があります。今ダビデには主の御顔が全く見えていませんが、試練の背後に主が確かにおられ、「祈り求めれば必ず答えてくださるはずだ」という主への信仰と信頼があるからこそ、ダビデは、「主よ。いつまで…」と叫んでいるのです。

残念なことに、時々クリスチャンの中にも、試練に遇うと、「こんなに辛いことが続くのであれば、教会なんか行かない」という人がいます。しかし、そのような人の「信じる」というレベルは、まだ「信心」の段階であり、「信仰」の域に達しているとは言えません。日本の諺に、「鰯の頭も信心から(鰯の頭のようなつまらないものでも、信じるとありがたく思えるという意味)」というのがありますが、このような「信心」は自己中心的なもので、自分に益をもたらさなくなると、すぐにそれを棄ててしまいます。しかし、「信仰」は神中心のもので、自分がどのような状況におかれたとしても、なお主を信じて仰ぐことができるのです。

2.私達が試練に直面する時、普通大別して2つの態度をとります。

1つ目は、他人に対する攻撃的な態度です。人を憎み、非難し、ひがみ、不平不満をつぶやいたり、試練に陥った原因を人や世の中のせいにします。2つ目は、自分に対する攻撃的な態度です。「私なんかだめだ」と自虐的になり、自分に失望し、極度の自己憐憫に陥ったりします。
しかし、ダビデの目は、他人や自分にではなく、主に向けられています。主を呼び求めています。実は、神様が私達に試練を与えられる目的は、まず神を見上げさせることにあるのです。すべてが順調に行っていると、私達は、なかなか神に頼ろうとは致しません。そして、いつの間にか自分の考えや人の力に頼ってしまって、神のみこころとは離れた方向にどんどん進んで(落ち込んで)行ってしまいます。神様は、私達がそのようにならないように試練を与え、常に主を見上げて神の恵みに拠り頼みながら歩めるように導いてくださるのです。

3.実は、この詩篇は、私が司法試験の受験生をしていた時に大変励まされた箇所でもあります。

主のみことばに導かれて、遅蒔きながら司法試験の世界に飛び込みましたが、なかなか合格致しません。5回、6回と落ちて、年齢も30歳近くになってくると、私の将来に対する不安と恐れが非常に強くなってきました。当時の心境は、とても言葉で説明するのは難しいのですが、「創造主を知った喜び」という私の証の中にその当時の心境を詳しく書いていますので、またご覧になっていただければ幸いです。この頃、私もダビデと同じように、「主よ。いつまでですか」とどれ程心の底から叫んだかわかりません。

そのような試練が約8〜9年間も続いたお陰で、私は、主を見上げるという習慣が自然に身についてきました。私の心は大変頑なだったので、それを学ぶのに9年間もかかったのです。最初のころは、全てのことにおいて、自分の力を信じ、自分の考え、計算で物事を処理し、解決しようと致しました。しかし、その度に自分の力の限界を知りました。また、人に頼ることの限界も知りました。このように、試練からの脱出口を見つけるために、最初は試行錯誤の状態で、あっちに行ってはゴツン、こっちに行ってはゴツンと、頭を壁にぶつけてばかりでした。

聖書の中に、“とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ”(使徒の働き26章14節)とありますが、信仰を持って間もない私は、頭ではわかっていても、なかなか神の力に頼ろうとはせず、自分や人の力に頼るという失敗、つまり、とげのついた棒を蹴り続けるという失敗を繰り返していたのです。このような痛い経験を何度もして、私はようやく、「自分には何もできない。主に頼るのが一番」ということを、身体で理解できるようになりました。

私のような痛い思いをする前に、賢明な皆さんには、試練にあった時には、自分の力で何とかしようとするのではなくて、ダビデのように、すぐに主を見上げていただきたいと思います。それが、試練を乗り越える最初のキ−ポイントです。



V.嘆きや願いを注ぎ出す


1.第2番目は、嘆きや願いをそのまま神の前に注ぎ出す、ということです。

礼拝中の祈りなど大衆の中での祈りは、とりなしの祈りや一般的な嘆願の祈りや感謝の祈りが多くなり、個人的な嘆願の祈りは敬遠されがちで、たまにあっても表面的な祈りにとどまってしまいます。他の人が、個人的な願いをあまり表に出さず、人のための祈りや感謝の祈りばかりするのを聞いていると、「私は自分の願いばかりで、あの人のような祈りはとてもできない」と思われる方がいらっしゃるかもわかりません。

しかし、人前でいつも感謝している人でも、毎日が良いことばかり起きているわけではありません。時には、人には言えない罪で悩んだり、悲しみや試練に遭遇して落ち込んだりすることもあるのです。ただ、いつでも人前で心からの感謝の祈りを捧げることができる人は、いつも神様と自分だけの密室の中で、自分の嘆きや悩みを神の前に注ぎ出して祈っています。そして、神様から個人的な慰めをいただいています。だから、人前ではいつも感謝の祈りや人のためにとりなしの祈りをすることができるのです。

2.このように、《密室の祈り》は非常に重要です。

《密室》と言っても、別に部屋に鍵をかける必要はありません。要は、神様と自分の2人きりになれる所であれば、お風呂場であろうが、台所であろうが、電車の中であろうが、そこが《密室》になるのです。

密室での祈りとみことばの学びは、正に神様との会話です。多くの場合、祈りによって自分の心の願いや悩みをそのまま神様にお伝えし、みことばを通して神様からの答えをいただきます。神様と2人だけの会話ですから、周囲を気にして格好をつけたりする必要も全くありません。親しい友人同士でするように、自分の心の中にあることを、それが不平や不満であってもそのまま神様にお伝えし、お話すれば良いのです。たとえ親や友人には話せないことでも、神様にはお話できます。

私には小学6年生の長男がいますが、例えば、その長男から、「お父さん。いつも私達家族のために、遅くまで一生懸命に働いてくださってありがとうございます。これからも身体に気をつけてがんばってください」と言うようなことばかり言われたら…、残念ながら今まで1度もそのようなことを言われたことはないのですが(笑い)…、何かよそよそしくて気持ちが悪くなると思います。「今日はこんなことがあった」、「こんな嬉しいことがあった」、「こんな失敗をした」、「こんな悩みがある」、「お父さんにはこんなことをしてほしい」と何でも正直に話してくれた方が、父親として余程嬉しいに決まっています。それは、それだけ子供から信頼されているということでもあるからです。

同様に、私達の天の父なる神様は、私達が「感謝、感謝」というのも勿論喜ばれるでしょうけれども、格好をつけないで、何でも正直に打ち明けてくれることの方をもっと喜ばれると思います。「なぜ、私だけがこんな苦しい目にあうのですか?」、「どうしてこんなことになったのですか?」、「神様、このようにしてください」。これで良いと思います。このような本音の対話から始まっていく時に、神様と私達の関係がより親密になっていき、神様との真の交わりが可能になっていくと思います。そして、上辺だけでなく、心からの感謝がささげられるようになっていきます。

神様は、私達が「アバ、父よ」と呼びかけることを許してくださっていますが(マルコ14章36節、ロ−マ8章15節、ガラテヤ4章6節)、この「アバ」というのは、ユダヤ人の家庭において、小さな子供が父親を呼ぶ時の幼児語です。日本式に訳せば、「おとうちゃん」ということにでもなるのかもわかりません。このように、天の父なる神様は、私達がいつでも「アバ、父よ」と呼べる親しい関係になることを望んでおられるのです。

3.ダビデは、自分の苦しい気持ち、心の叫びを、そのまま主の前に注ぎ出しました。

また、「このようにしてください」と具体的に祈りました。イエス様も、ゲツセマネの祈りの中で、先程の「アバ、父よ」と呼びかけられた後に、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14章36節)と正直に自分の気持ちをそのまま出して祈られました。勿論、そのような祈りが全て聞かれるとは限りません。しかし、そのような自分の気持ちをそのまま主の前に注ぎ出すことによって、私達は、主との裃(かみしも)を脱ぎ捨てた親密な交わりの中に引き上げられます。そして、祈りの答えに確信が与えられたり、また、仮に自分の願った通りの祈りの確信が得られなくても、主との交わりの中で力が与えられ、祈りの答えを見い出すことも多いのです。

私達も、神様に自分の気持ちを包み隠さずにぶつけることができる《密室の祈り》をできるだけ増やしていきましょう。密室の祈りをしないで、神様からの慰めを十分に得ていない人は、不平や不満が、家族や他人に対して出てきます。私達が毎日を主の麗しい香りを放ちながら歩めるかは、正にこの《密室の祈り》をしているかどうかにかかっているといえます。

4.次に、4節のダビデの祈りにも、多くのことが教えられます。

ここで、ダビデの敵が喜ばないようにという祈りが出てきますが、敵は単に「ダビデに勝った」、「ダビデがよろめいた」と言って喜ぶわけではなく、「ダビデという信仰者に勝った」、「ダビデという神を恐れる者がよろめいた」という意味で喜ぶわけです。つまり、敵は、ダビデの神に対する不信仰者の勝利を喜ぶということであり、それは神の栄誉にかかわることでもあったため、ダビデは、そうならないようにと祈ったのです。

これは、裏返せば、この時ダビデが、神のしもべとしての生き方を忠実に実行していたということです。私達も、このダビデのように、いつもキリストの旗幟(きし)を鮮明にした生き方をしていきたい、そして、「私が倒れることは神の栄誉にかかわることだから、そうならないように守ってください」と堂々と祈れるようになりたいものだと思います。


W.嘆きから賛美へ

1.第3番目に、祈りは嘆きを賛美に変える力がある、ということを学びたいと思います。

ダビデは、1節で「主よ」と叫んでいますが、この時のダビデには、「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」とあるように、神に見捨てられたような苦しみがありました。

これが3節になると、「私の神、主よ」という叫びに少し変わってきます。これは、祈りの中で、ダビデが主をより近くに感じられるようになった、ということだと思います。さらに、5節、6節になると、ダビデの祈りは感謝と賛美の祈りに変わってきています。何という大きな変化でしょうか! ダビデの置かれている状況は、祈る前と全く変わっていません。それなのに、一体何がダビデの心境をこんなにまで変えたのでしょうか?

2.ダビデは、1節で「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」と祈りました。

3節では「私に目を注いでください」と祈っていますが、これらの祈りからもわかるように、ダビデにとっては、敵の迫害ということもさることながら、主の御顔が見えないことが最も辛いことでした。ダビデにとって、主の御顔が自分の方に優しく向いていることが確認できれば、苦難を耐え忍ぶことは容易だったのです。ちょうど、幼い子供が高熱を出して苦しんでいる時に、自分を見守ってくれている親の顔を見ればホッとし、親の顔を確認しながら頑張り耐えるように、ダビデもこの時主の御顔を確認したかったのです。

これは、私達にも当てはまるのではないでしょうか。私達に与えられた試練がいかに大きくとも、主がその試練の中で私達と共にいてくださることがわかる時、私達は、その試練に耐えることができます。しかし、そのことがわからないと、私達の試練は一段と耐え難いものになります。
ダビデは、主を見上げ、自分の嘆きや願いを率直に祈る中で、おそらく主の御顔が自分に向けられていることを確認できたのでしょう。そして、1人ぼっちの思い煩いから解放され、主の守りの確信と主の恵みにすべてを委ねることができる平安を取り戻したのだと思います。だからこそ、ダビデは、敵の迫害が続いている状況が全く変わらなくても、主への感謝をささげ、勝利の賛美を歌うことができたのです。

このように、私達が試練の中で主を見上げ、心の底から訴える時、主は、必ず私達をより高い恵みの座へと導いてくださるのです。


X.まとめ

最後に、本日の奨励をまとめてみたいと思います。試練は、私達にとって決して好ましいものではありませんが、それはまた神様が許された貴重な訓練の時でもあり、私達の信仰が引き上げられるチャンスでもあります。

私達は、試練に遭った時、恐れないでまず主を見上げましょう。そして、自分の嘆きや願いを、そのまま主の前に注ぎ出しましょう。主からの答えが得られなければ、確信が与えられるまで何度も何度も主に訴え続けましょう。そうしていくうちに、必ず私達の嘆きは賛美に変えられていくことを体験致します。

最後に、聖書のみことばを読んで終わりにしたいと思います。

肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私達を懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル人への手紙12章10、11節)


mbgy_a05.gif