「意味」の病理

共有なき社会での歪んだ「共有」
最近「パナウエーブ研究所」(最初ナショナル関係かと思いました・・・)なる白装束の集団がどこからともなく出現し、キャラバン生活を送りつつ、あちこちを放浪しているようです。自分達のキャンプの中と周囲を白い布で覆い隠し、スカラー波による電磁波攻撃から身を守るのだそうです。宗教が背景にあるようで、彼らの教祖は昔はかなりの美女で、ミカエル大王だそうです。またぞろ、オウム集団の再来かと、世の中は神経がピリピリし始めているようです。

不謹慎ながら私はこの手の現象に対して興味ワクワクで、テレビのワイドショーなどはけっこう面白がりつつ拝聴しています。ちなみに大学での私の精神保健学の講義はこの手の人々を素材に使いますので、学生からかなりの人気を得ていまして、今学期は5、600名を超える諸君が受講しています(採点が大変・・・)。彼らの行動を見ているとき、私たちにとっては理解不能です。何で白い布で覆うと電磁波を防ぐことができるのか?これは物理学の初歩を学んだことがあれば、まったく意味のないことであると分かるのです。

さてここで問題となるのは、意味付けとその共有の問題です。彼らの行動は彼らの理屈からすると何らかの立派な意味を持っているものであり、私たちからすると意味のないものとなります。ここで「意味の共有」の有無によってギャップが生じるわけです。人の関わりにおいて本質的なことは、何かを共有することです。人は何かを共有するゆえに関係を持ち得ますし、またその関係の質と程度は、その共有する対象の性質と度合いによります。

今回の集団もその基本的精神病理は投影による被迫害妄想であり、その教祖の精神病理をそもまま共有する形になっています。これはオウムなどのカルトなどの特徴的病理を呈していますが、これについては「ユダヤ人と日本人」あるいは「最近の諸事件の霊的病理」などで論じていますのでここでは触れません。

最近の若者を見ていて感じることは、互いに共有し得るものがない、あるいは薄い、あるいは分断化されていることです。例えば私より一世代上の人々は学生運動なるものに相当の労力をつぎ込みました。そこには世代としての何らかの価値観の共有があったわけです。私たちの世代はこのようは広い範囲における価値観の共有はありません。共有するものが多様性を帯びて分断化し、またその程度も薄くなっています。これが私よりも下の世代になるとさらに進行するようです。

人間関係もそれに応じて分断化されています。コンビニのように商品が脈略なく何でもありの状況と似ています。かつては○○屋さんという形で、商品もその内容に文脈化されたものが揃っていましたからその店の意味付けも容易でした。コンビニにはそのような意味付けはありません。田舎では血縁関係を中心とした土地ごとの共同体があり、その意味付けは容易です。しかし私などはそのような意味付けの中に拘束されることを回避するため(要するにうっとおしいので)に東京に出てきたわけです。

東京のあり方はコンビニのように雑多な意味の共有のない分断化された薄い関係です。これがとても気楽であると感じたわけです。しかし同時に自分の身の置き処を見出すことが困難になります。意味の共有できる共同体を見出すことが難しいからです。会社などにおいてもかつてのようなある一定の意味を共有し得なくなっています。これからの社会はますますこの傾向を強めることでしょう。インターネットの掲示板に人間関係のあたたかさを求めたり、あるいはその裏返しとして意味のない関係の人々が心中したりする世の中です。

夜遅くまでコンビニで雑誌の立ち読みをしている若者や、店先でウンコ座りをしてタムロしている連中を見るときに、この意味の分断化された脈略のない世にあって、自らの身の置き所を失い、必死にどこかにそれを探そうとしている人々の象徴のように見えます。このような世のあり方に攻して必死に「意味」を見出し、「意味」を共有しつつ、共同体を形成しようと努めている人々が今回の白装束の集団であり、オウムなどのカルト集団の人々なのです。この世の裏を返してある価値観の体系をあえて作り出し、それに「意味」を持たせ、それを共有し、それに従って行動しているわけです。

この世の表側が分断化されて意味のないものであればあるほど、裏の彼らの「意味」は重みを増し、その共有の程度も深いものとなります。子供の頃、草むらに「秘密基地」を作ってそこに「意味」を見出して遊んだ私などは彼らの気持ちはよく分かります。それは自己存在の究極の意味をそこに見出そうとしている彼らの必死の努力であるからです。白装束の彼らを見て、神から離れて本質的な存在の意味を喪失した人間のある種の滑稽さと哀しさを感じています。(2003.05.05)

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