ヴァーチャル化による

自我肥大の病理


―善悪の木の実を食べし者の宿命―
真実のありかとは?

本稿は論説記事の補稿です

■いよいよ米国の対イラク作戦が始まった。アメリカのクリスチャンは大方この作戦に賛成のようであり、世界の世論からは孤立しているようである。それにしてもこのような事態が起きると決まってクリスチャンも賑やかになる。平和だ、愛だと叫ぶ者、米国のやり方を非道であると批判する者、また自分も人間の盾になるとか宣言する者、また事件の報道の内容についても自らの立つ立場によってその色彩がまったく異なるようである。不思議なのは自ら目撃していないにもかかわらず、第2次、3次情報である文字情報でどちらかの立場を確信的に選択してしまうナイーヴさである。

■これらのかまびすしい様相を見ていると、黒沢明の『羅生門』(注)はやはり人間存在の根本を抉った名作であると再評価する。クリスチャンの傾向として、自由・平等・博愛的なヒューマニズムに落ち込む人々、またこの事件は聖書預言のどこに当てはまるかと、あたかもジグソーパズルのピースをはめ込むことに夢中になる人々もいる。しかもその預言解釈にしても一方でディスペンセイション主義があるかと思えば、他方で再建主義的解釈があるといった具合で、両者の解釈はまったく正反対となる。

注:ある事件に関係した当事者3人の証言が微妙に食い違い、それぞれ自分にとって有利になる証言内容になっていることを通して、人間の心の闇を白黒のコントラストの映画で見事に描き出した傑作。

■また世の政治家にしても党首討論で口角泡を飛ばしつつ、ここぞとばかり議論の応戦をしている様を見る。正直に言って、こんなところで議論してもしょうがないでしょうにと思いつつ、自分は正義、相手は不義という姿勢を見ると、ある種の自己陶酔的サディズム傾向を見ることができ、私はきわめて不愉快になる(特に最近は菅さんに問題を覚える)。ヒューマニズムにはまっている人々にしても、預言解釈のジグソーパズルにはまっている人々にしても、相手の言質を取って議論の応酬をしているだけの人々を見ても、要するに彼らはヴァーチャルな世界に生きているのだということだけが明確になり、ある種の虚しさを覚える。

■ヒューマニズムに酔っている人はある種の自己憐憫の霊に支配されているのであろうし、聖書預言にはまる人々はおそらく自己の解釈に世界の事件がはまることにある種の自己高揚の快感を覚えてるのであろうし、政治家は論敵にダメージを与えることにある種のサディスティックな満足を覚えるのだろう。いずれにしてもその中心には自己が疼いている。そこでは同じ平面上で互いに共感し何かをシェアするといったことはまず不可能である。自己と自己のぶつかり合いだからである。自分のアイデンティティを守るための応酬に過ぎない。

■霊的に言えば、『ユダヤ人と日本人』のシリーズの稿でも述べたことであるが、やはりこの中東問題、特にユダヤ人問題、さらに聖書預言の解釈の問題に関しては、聖霊以外の何かの霊が働くことは明白である。そしてその霊の働きによりある種のフィルター(色眼鏡)がかかり、ますますバイアスがかけられていく。この霊は自己に訴えることを得意とし、そのフィルターとともに自己を太らせるようである。あえて言えば、<自我肥大の霊>と言えよう(注)。肥大した自己は一面脆弱であり、よってその防衛のために排他的他者攻撃性を帯びる。

注:ユダヤ人のルーツに触れたり、彼らと異なる説を唱えるだけで「反ユダヤ」とされてしまうような状況に働いている霊はけっして御霊ではない。この霊の正体は何なのだろう。いずれにしろ独得のニオイが醸し出される。

■かつて私の掲示板に、よく読めばイスラエルを擁護する内容の投稿があった。ところがある親イスラエルの方がそれに対して、「このような内容はドイツであれば犯罪である。」との反応を示された。多分投稿の中の扇情的な単語に反応したようであるが、文脈を捉えていないことは明らかであった。赤いメガネをかけて白い紙を見るようなものである。きわめて短絡的情緒的な反応であり、私にとってはひじょうな驚きであると同時に、食指が動く一件であった。なぜこのような反応が出るのか。何かある。こうして「ユダヤ人と日本人」の論考を書いたが、もちろんすべて解明されたわけではない。この精神病理と霊的病理はかなり深く錯綜していることは間違いない。

■また聖書預言の解釈にしても、前千年期再臨・前艱難携挙説の人にとっては、七つの封印が解かれる前にクリスチャン達がいっせいに消えるわけで、それまでは何らの兆候もないことになる。この原理を「緊急性の原理」と呼ぶ。また後千年期再臨説の人にとっては戦争や世の中の不正はすべて主の再臨の前に聖書的価値観によって統制されるべきものである。よって世の中に正義が実現せず、戦争がはびこる限りはイエスは再臨されないことになる。要するに彼らの独自の預言解釈システムというフィルターを通して現実を見ることになる。つまり"色"がつき、その映像はバイアスされる。

■したがってこのような二派の人々にとっては、例えば今回のイラク攻撃もまったく意味付けが異なってくる。これは実に面白い現象といえる。両者ともクリスチャンであり、拠って立っているのは両者ともまぎれのない聖書なのである!しかし同じ御言葉を解釈するに際してその採用しているフィルターの色によって正反対の解釈となる。まさに『羅生門』の世界である。私はこのような議論が白熱するほどに身を引いて、両者を観察してしまう習性がある。

■私にとって興味はどちらの論が正しいかではない。両者ともにその説において自らのアイデンティティを建てており、その確信が強ければ強いほどその解釈によって自我を肥大化させていることである。その確信は肥大した自我の裏返しとも言える。要するにいずれも入れ込んでいる人であればあるほどある種の排他的自己防衛傾向(パラノイド)の印象を残す。しかも両者ともにそのような印象を相手に与えていることに気がついていない。どちらも言いたいことは「自分は真実が見えており(正しく)、相手は見えていない(間違っている)」、「自分は聖霊によって語っており、相手はそうでない」である。よって議論の応酬はイスラエルとアラブのそれに勝るとも劣らない様相を呈する。まさに善悪の木の実を食べた人間の宿命をそのままに証明している。

■人は善悪知識の木の実を食べて以降、その生の中心は自己となった。今日メディアの発達によってヴァーチャル化が進行するに比例して、そのヴァーチャルな世界を栄養としてますます自己肥大も進んでいる。私にとっては、ディペンセイション主義も再建主義も同じに見える。また親イスラエルも反イスラエルも同じである。あるいは親天皇も反天皇も、さらには右翼も左翼も同じに見える。いずれにしろ、その中核に生きているのは自己であるからだ。自己が肥大するほどに、頑なに自分の立場を守るであろうし、その立場にプライドを建てる結果、さらに自己を肥大化させる。こうして引くに引けない状況、つまり相手を抹殺するか、自分が抹殺されるかの瀬戸際に追い込まれる。私が受ける印象はどちらの側からも、自分につくか、さもなくば死を、といった切迫した危機感である。要するにはめ込まれる圧迫感である。今回の戦争もこの病理の結果である。

■果たして今回の戦争の行方はどこだろうか・・・、また主はいつ来られるのだろうか・・・。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。

           (長女の高校卒業の日にしてイラク攻撃開始の日:03.03.20)

■追記:ついにバクダッドが陥落した模様です(04/09)。それにしても今後どのような政府をあの地に建てることでしょう。むしろこれからが困難さを増す事でしょう。面白いのは今回のアメリカの策に対して、さらにはアメリカそのものについて、聖書預言に基づいて真っ向から対立する説があることです。ある人はアメリカはダニエル書の獣であるとし、ある人はアメリカは聖書預言では重要な位置を占めていない、としています。このような現象は私にとってまことに興味深い現象です。人の心の不思議さをまざまざと証明してくれています。しかしペテロはこう言って聖書預言をめぐってスペキュレーションすることをいさめています:
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
人は知識の木の実を食べて後、その心に知ることに対する飢え渇きを宿しました。知りたい、知りたい・・・・と。実はこれは立派な肉の情欲の一種です。今後の世界がどうなるか、聖書の預言は何と言っているか、どの解釈が正しいのか・・・。このような時こそ、神の主権を認め、主の前にじっと静まるべきであり、私たちのともすると疼きがちな知性を御霊に服させるべき時です。そこには必ず排他的高ぶりが生じるからです(03.04.10)

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